昭和41年01月16日 夜の御理解



 ただいまから、1月16日夜の、御理解を頂きます。何時でもどこにおっても、神様の御守を、受けておるんだなあ。御守護を受けておるんだなぁと言う事が、解らなければならん。御理解を頂いておりますと、それが、よう解るんですね、解るけれどもそれが解っただけでも、いけんのです。解ったらそこから喜びと、そして安心が生まれて来る様なもんでなからなければ、本当に解ったと言う事は、言えません。どこにおってもね。いつでも。どこででも。
  何時いかなる場合であっても、神様の御守護の中にあるんだなあと言う事、しかも信心さして頂く者はです。特別の御守護を受けておるんだなあと言う事が、その自分の身に心に感じられなければダメだネ。ここの所を目指さないかん、互い信心さして頂く者は、どこに居っても、何時どんな場合でも神様の御守護を、受けておると言うだけでなく、特別の御守護を受けておるんだ。 
 と特別の御守を受けておるんだと。特別な強烈な折りの中に私があるのだと。言う事をですね。実感出来る様なおくり合わせをネ、日々の生活の中から体験してそれを、生み出していかなければいかん。こう云う事が特別の御守護を受けておる印だと言うものを感ずる時に、生まれて来るのが喜びであり、どこに居っても安心が出来るのですね。皆さん、今度私の学院行きの事を皆さん大変色々、心配して下さいます。そらやっぱり、その皆さん実際に御世辞ではない。言葉だけではない。
 心配、実際銘々のおかげの事に直接係る事で御座いますからね。椛目の方達の場合は、私が一年間ここを留守をすると言う事はどういう、例えば難儀な問題を持って来ても、どう云う様な事があってもです。御広前にお引き寄せ頂いて、お取次を頂かせて貰うたら、もうそこから、安心が生まれて来る。ですから、それを一年間そのおかげでですその為に、一生懸命の信心は出来ましょうけれども。
 一生懸命の信心を、その為に出来ない人は、落ちていかなければならん、ですから矢張り椛目の方達にとっては容易な事ではないけれども、ここに私は思うんですけれどもね。これは私自身がそういう、本当に神様の特別の御働きの中に、特別の御守護の中にあると言う事、その折りの中にお互いがあると言う事が、分る所まで、私と皆さんの信心が接近して参ります所からですね、なるほど何処におっても、何時でも安心が出来ると言う、おかげが頂けるのじゃなかろうかと、こう思うのですね。
 今日、壱岐の教会の御長男です。末永と言う御長男が、もう本当に御道の信心の先生なんかは、もう親の後なんかは絶対継がんと言う積りで、保険の外交を始めて福岡の方に来ておられました。そして縁あってここに繁々と通っておられる内にです。いよいよ信心の本当の信心の心の芽がひらけて来た。そしてこれは親の後を継がせて頂こう。御道の教師にでもならせて頂こうと言う気持になって、あの会社の方からは、会社の方と言うがあの福岡支部の支部長さんがですね。
 今年一年だけそのおってくれ。すると支部長、私自身が定年になっていいから、一年おってくれと言われるのを無理に、押し切って御本部に修行に行くと言う事に腹が決まりました。ついては、こちらの親先生が、おいでられると言う事である、この機会を逸してはならない、もう本当にそう言う風な思いでおらせて頂いておりましたら、今年の元日の初夢に、先生こういう様なお知らせを頂いたと言われるのです。
 私、私と言うのは末永さん、そすと久留米の光橋先生、そすと久留米の野口真子さんその三人でですね。親先生がこの奉仕着を付けられるその着物を、着せたり袴を履せたり、言わばこの羽織りを私、羽織りをこう後ろから御着せしておる、言わば奉仕をしておる所を頂きました。ああ、これは今年は、いよいよ親先生が御本部においでられる、私も一緒に修行に行かなければならんと。
 もう本当に身の周りの御用は、私が一人でさせて頂こうと、こうまあ思わせて頂いて、先日からも私があちらに下がっておる時に見えましたが、もう前に先生のあの足が悪くて按摩を皆んなからして貰よんなさいますから、私がそのコツを一つ覚えとかないかんから、どうでもその按摩のコツを、よく覚えとかないけんと言うて、そのこの頃から足をもんで下さるですね。
 けいこしとかなければならんと言うわけなんです。まあ、そういう様な思いでおられましたのでございますが、この元旦の御夢に、ただ今言う様なお知らせを頂かれた。けれども久留米の光橋先生が、おられたり野口真子さんが、おられたりそして、私自身その末永さんがおられると言うことが、どういう意味か分からんから、御神意を頂いてくれと言うことであった。
 そしたらです。野口真子と言うのはこの脳・頭・口、言わば言うておる事と思うておる事が一つになって、真子とは真の子と書いてあるです。あの人は真子さんのしんは真という字なんです。それを真で表わしていけばです、光橋、みつかと言うのは、光橋とは、この御結界ね。控えの橋氏子の世界と、神様の世界を取り結ぶ世界、皆さんを、私が御導きをして、手を引いてこの橋を渡らせる。
 そして、神様の世界に渡らせて、神様の思いを分からせる。それがこの御結界での御用なのです。いわゆる光の橋なのです。その光の橋、みつかとは光の薫と書いてある。末永お前が今年は、本当にお前が今、口で言うておる様に思うておる様な事が真になって表れて、そして大坪のそういう御用をさして頂く事になったら、お前がいよいよ教師になり、言わば御道の先生として布教に出た時にお前のみつはしの言わば。
 おかげが受けられるぞと。今度、徳を受けとかなければ、受ける時は、無いぞという神様の御神意であろうと。私は、先生もう大体想像はついとったけれども、もう改めて感激しておられました。どうぞ末永さんお願いしますよと私しがもう年を取っておるから、あなたが若い人達が、おいでにならなければ、どうでも頼みますよとこと言うわんでもです。もう神様がです。神様が末永と言う先生を使うて、私を御守護下さっておると言う事が分かるですねえ。
 先程から山口の、にしみち教会の永田先生が、元旦から、お礼に出て来ておらなかったからと、お礼に出て見えました。先生今日、今夜熊本の方へやらせて頂きますと、ひろ子さん所へ、ひろ子さんと言うのは、ここで本気で、いわゆる、信心のけいこさして頂いて、まあだ二十前でしょうか、高校卒業してまだ今年が二年目でしょう。もう本当に、そら人のたまがる様な、御徳を受けて行きよります、嫁さんです。いわゆる、永田先生の姪にもなる訳なんです。
 だからその山口のにしいち教会から、本部へ今度は教師の資格を取りにやっぱ行く訳なんです。その書類が不備な点がありますから、今熊本の方へここから帰りにあちらにやらせて頂きますと本当に私は思いよります。ひろ子さんが親先生と御一緒にあちらに行かれてからまあ本当にまあ、身の周りの何かに御世話さして頂くと思うたら。ひろ子自信も喜びよりますけれども、私し共も安心してやらせますと言うて今日言うておる。
 こっちは女の子まあ、言うならば、私しのほんなら身の周りのこまの一つでもまあ言わば、神様が私しには洗濯もさせまいと言う様な、働きを感じるじゃないですか。ひろ子さんと言や、もうそれこそ私しを生神様の様に思っておる、私しのいわば弟子なんです。末永、その人でも矢張り私しのおかげで道の教師の開眼をした、私しを本当に師匠と思うておる人なのです。
 言うならそういう御弟子さん方が二人、私しと時を同じにして、御本部に行くと言うんですから、成程特別な御守護の中に、私しはあるんだなあと思うのですよ。ですからそういう御守護の中にあるのですから、その私しが祈る所。これが椛目の御広前の上に表れない筈は、私しはないと確信いたします。信心さして頂く者がです、本当に有難いのはです。御理解を頂けば、言わばもう信心の道の道理と言うものを開けばです。成程神様の御守護を受けておると云う事はよう分かります。
 神様のおかげを頂かなければここ一寸が動かれんのだと、お水ひとしずくの水でも、一粒のお米でも、神様のおかげを頂かなければならんのである事がよう解るんですけれども、そういう意味合いにおいてならば、世界中の氏子におかげはやってあると言うおかげであってです。特別信者氏子と呼びかけて下さる信者氏子としてのですね。特別の御守護の中にあるんだとあっても、そりゃあるんだと感じさせて頂けると言う事。
 信心とは。そこに何処におっても、安心が出来れるでしょうが、何処におっても、心配はないでしょう。何処におっても特別の御働きを頂いておる中にあるんだなあと言う事が分かるでしょう。私しは、そういう日々を私しは過ごさして頂かなければ本当は、本当の信心生活とは、言えないと思う。理屈の上で、神様の御守護の中にあるけんでと言うだけではなくてです。
 神様の御守護の中にあるのではない、神様の、あるのだけれども特別の御守護の中にあると言う私、皆さん、特別の御守の中にあるのだと、それは降る事もある。照る事もあるんだけれども。それとても特別の御働きなのだ、特別の御守護であるんだと。今日、先程御祈念に掛ろうとする時丁度中島さん達が、親子四人で参って見えた。いよいよ明日ですか、明日の晩あちらへ発たして頂く、お父さんがあちらは何処だったね、横浜・横浜の方へ発つ、また当分、親子夫婦別れなければならない訳なんですね。
 そういう様なお届けに見えたんですね。そしたら御神米をお下げ頂いてから、御書き下げにですね。「大きくなる大きく大きく長いめでと頂きました。」大きく、いわゆる大きくとは、自分の心を豊かに大きくと言う事でしょう。ながいめと言う事はひらがなで頂いたんですけども。ながいめと言う事はですはね。まあながいめでみよって下さいとこう言うでしょう。いかにそんなら、神様の特別のお働きを頂いておりましても、今、みのりねりざんに解ると言う事は、ないと言う事。
 例えばここでならどんな事があっても親先生を御本部にやっちゃならん、今日はその事の為にわざわざ御本部にお参りしておられる方さえ御座います。この事を金光様にお願いをすると言うて行っておられます。ですからお願いをしたからと言うてですね。ならののみさんに私し共の思う様になると言う事ではないのです。おかげと言うのはそこで私共がどうしても、大きな心を頂けなければいけないでしょう同時にですね。
 身近に私共が神様の御守護を、特別の御守護を、身に感じさして頂く所から、ながいめでもみられていく訳なんです。例えばなら子供なら子供がです。頭が悪くてあんな事、こんな事で先き先きどうなるだろうかと思うのだけれど、さあ勉強しろさあ勉強しろ、もうさあこの次にはその成績が上がらな承知せんと言った様なものではなくてです。勿論勉強もさせねばならないけれどもです、豊かな大きな心と同時にそれをながいめをもって、神様の働きを頂いていきよればです。
 ちゃんとおかげが頂けれるんだと言う事、皆さんどうでもその豊かな大きな心と同時にです。ながいめでとこう仰る、そのながいめといいう、言わばながい心と言うでしょう。大きな心に対する、ながい心と言うものを頂いていかなければならぬ。そこからしか、本当のおかげと言うものは、はああれもおかげであった。これもおかげであったと言う事になって来ない。お願いをすりゃ、皆右・左に右からぱっと左になると言う事ではなくて、そういう意味の事が解るでしょう。
 折角信心をさして頂くんで御座いますんですから、特別金光大神の御取次ぎによって、天地の親神様の御徳を、私共の上に、まんべんなく。いわゆるもう世界中の氏子に、おかげをやってあるというおかげを、頂いておると言う事と同時にです。信者、氏子と、唯、私共の事を信者とひとつよけい言うて御座る。信者氏子と仰る。特別その信者氏子の上にはです。特別な強烈な祈りとお働き御守護があっておるんだと言う事をです。
 私自身が感じる例えば今の事だけでも、今日一日の事なのですそれは永田先生が見えたのも、末永先生が見えたのも、やっぱり今日一日の事だけれども、ははあこういう御守護の中にあるんだから何時、何処ででも私しは安心しておれれるなあ、と言う風に思えるのです。その安心が大きなおかげをまた頂けれる土台になる事はもうもちろんですね。
   どうぞ、おかげ頂きました。